コラム

2026.09.15更新

弁護士 荒 井 新 二

1 国旗は「国家」のシンボル
 国旗損壊法(以下法という)が2026年7月17日に国会で成立し同月24日に施行された。国会審議では、国旗がシンボル(象徴)であることの意味が深く掘り下げられず、国旗尊重のスローガン的言辞が大手を振って国会を罷り通った感がある。
 しかし、よく考えてほしい。シンボルの先には必ず象徴される実体がある。鳩は平和の象徴である。シンボル化された鳩の実体は平和である。同じように国旗で象徴されるのは国家である。ハト料理に舌鼓をうっても「平和に対する罪」にはならない。国民感情としても誰も平和が毀損されたとは思わない。
 なぜ「日の丸」という、それ自体物理的な有体物を破損すると(自己保有の「日の丸」を含め)、刑罰を受けなければならないのか。

2 説明された保護法益
 国会審議では国旗を愛することは国民の一般感情であって、それを毀損することはその普遍的な感情を毀損するからと説明された。ことは刑事罰の問題であり、またリベラル主義の問題、自由主義の問題である。そのような底の浅い議論で済ませる訳にはいかないだろう。
 象徴されたところの「国家の尊重」の意味、刑罰で罰する必要性について、十分に深い審議がなさなかった。ただ外国旗損壊規定を持ち出す答弁が頻用されたことだけが目立った。しかしこの規定は多くが有識者が指摘するように外国旗を自国民が侮辱すれば、その国との円満な外交が阻害されることを防止する立法趣旨である。このことを区別せず一緒くたにしてまことしやかに説明する国会はそれ自体、異様と言うほかない。
 そういう次第になった経過について国会参考人の学者が指した「法が内閣法制局の厳格な審査を経る閣法でなく自民や維新の議員諸公による議員立法だった」は、この法の形式・内容の異質さの図星をついている。
 シンボル・象徴を刑罰で守る初の独立立法である。シンボルを刑罰で守ることの意味、その問題性を議員諸公は理解しているのか。その立法に与える負の波及効果をどう考えたのであろうか。
 一部に刑法の「礼拝所及び墳墓」象徴毀損罪が既に先例としてあるとの指摘もある。しかし同犯罪は霊魂などの非実体を象徴するものに過ぎない。客観的な有形物でないからこそ崇敬尊重されるのであって、国家=日の丸とはシンボルの性質を異にする。
 その意味でも、社会的な実体のシンボルを「不敬」として立法したことの意味は重い。シンボルとは、曰く言い難い抽象物を分かりやすく伝達する機能を持つ。この法が立法類型の境界を越えたことは、この種「不敬」罪の立法の試みが様々な形で今後頻出することをなによりも危惧する。

3 国家を大事にするのは共通の国民感情と言う言説
 先に述べたように法の保護法益は、国旗を大事にする(レスペクトする)「国民の共通感情」と説明された。もう一度言いたい。国旗を大事にするということは、国旗に仮託された「国家」を大事にするということであって、それ以上でも以下でもない。
 ところが法には「国家を大事にする」というナラティーブが正面切って明示されず、法案の字面、立法「理由」にも全く出てこない。定義規定を含め僅かの3条しかないのにである。
 国民は国家を大事にする一般感情を持つという事実は、どのように検証されたのか。また国家を大事にするべしという規範を、いつ、どこで誰が決めたと言うのか。 国歌国旗法制定(1999年)の国会審議では「君の代」「日の丸」を尊重せよとの議論は一切なく、これらを強制しないと言う政府説明があった。
 「国民感情」について実証的な検証および制裁の根拠に関する厳格な審査か必要不可欠である。そういう議論をほとんど行わず法案成立に至ったことは大きな禍根を残した。
 その意味でも今回の法は欠陥法と言えよう。

4 「日の丸」の来歴
 国旗である「日の丸」は、明治維新前後から広まった近代の産物である。戦前の絶対天皇国家の旗印と生まれ、その後「国体」を象徴するものとなった。その「国体」のなかみがグロテスクな変幻自在ぶりを発揮して、自由と権利の抑圧の暴力的な手段として駆使されたことは戦前の歴史的な事実である。戦後、主権が天皇から国民に移行し国の根本が変わり、すなわち「実体」が転換した以上、「日の丸」の意味に劇的な変化が生じた。それに伴い持続した(本来そうすべきでなかった)「日の丸」に対する国民感情も戦後に反転し、「日の丸」にたいする国民感情は複雑化し流動化していったこともまぎれもない歴史的な事実である。
 「日の丸」を愛することが一般的ないし普遍的な共通感情だと言うのは、「普遍」「一般」という点において、日本の近代史に反する強引な誤訳であろう。そのような「日の丸」の歴史、来歴、そのことに対する戦前、戦後を含めた明治以来の国民の感情と推移を十分に吟味することが必要であった。そのような議論をまともにせず、一方的に「一般感情」「普遍的な感情」をあたかも既存の確定的事実のようにして強引に立法化を図ったことは、立法の府たる国会の責務を果たしたことにならない。国民の国旗=国家に対する感情・認識を封印する結果となったと思われる。それは国旗に託された筈の国民統合の機能をかえって害しかねないパラドックスを生んだと言えよう。
 フランス革命は、ブルボン絶対王制の国旗とも言うべきブルボン家の紋章が怨嗟の的となり、人民の旗の三色旗が1794年に正式に国旗と定められた。特定の国旗に対するレスペクトというものは歴史通有的なものではない。時々の国家の政体・政治と不即不離の関係にあって、それと離れて独立に、普遍的な尊崇の対象になるものではない。国旗も歴史とともにある。「日の丸」も決して例外ではない。「日の丸」の来歴に見て見ぬフリをすることはできず、これに「懐かしい郷土」、「愛すべき自然・風土」はては「美しい国」などの非実証的でロマンチックな言辞を飾りたてるようなことは、法が法である以上、できないのである。

5「愛国主義的精神」は道徳論           
 一部に教育基本法2条五号に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」という文言を引用して、愛国心の保持は法で既に保護されているとの議論がある。しかしこれは道徳を含めた教育の目標をうたったものに過ぎない。それを新設した安倍首相もこれを強制に繋がるものとは考えないと言明していた経緯がある。当時の担当の文科大臣も「我が国」には政府などの今日の統治機構を含まないと明言していた。
 今回の法は、対象の範囲から、国の統治自体、政治のあり方を除外するものになっていない。郷土、風土、自然、古里、古来の風習などのイメージで語られるものだけに限定する趣旨もない。それに道徳上の問題ではなく、刑罰の問題であって、教育上の規定とは次元を明らかに違う。教育基本法を引用しての上記言説も容れられないと考える。
 私は、国民の国家を愛する問題はともかくとして、国家は愛されるべき存在であるべきだとは思う。大は国民の感情としても、小は個人的な感情(道徳感情)のうえでも国を愛したいと思う。しかし国から自分(クニ)を愛せよと言われることに大きな違和感を持つ。ましてや刑事制裁を背景に国を愛せよと言われたくない。
 愛国心というものは、自然に涵養され時間的び醸成される気持ちである。プーチンのロシア、トランプのアメリカあるいは形は違うが神託政治のイランなど、当該国民(の一部にしろ)が本心から国を愛せないと言う事例がありうるし、今日現在の事態はそうあって当然であると思う。
 上からの愛国主義的意識の押しつけ、愛国思想の強制・動員は筋違いどころか、刑罰権の保有を含めて国家権力を専横する国家として全くの間違いである。

6 刑法の構成要件が甘く、国民の分断を強める
 法の審議では思想・良心に渉らないように客観的に判断するから人権侵害の恐れはないと説明された。象徴には、既述のとおり一般に説明しがたい抽象的なことをイメージ的に分かりやすく示す機能がある。その物理的損壊を刑事罰に問うとき、行為者の意図、思想が必然的に問題となり、そこに思想・良心への侵害の恐れが生ずる。
 法の説明では、そのことを回避して客観的な判断を担保するため、法に「快・不快あるいは好き・嫌い」の基準で判断する旨の規定をおいたと言う。「快・不快あるいは好き・嫌い」は、人々の気分で左右される主観的要素である。客観的な判断を担保するために超主観的な基準を導入するとは、悪い冗談としか思えない。これでは裁判官たちも法の運用に躊躇することになろう。参考人がこの法は使い物にならないと嘆じたのも肯ける。超主観的な感情に基づいて刑罰をきめようとするのは刑法的にもあまりに乱暴である。立法者は「あくまで一般通常人を基準として」判断すると言うが、一般通常人とは、多数派の別名であろう。多数派の感情の持ち方で刑罰が決まるのは少数者の権利に対する重大な侵害になりうる。
 さらに主観的な感情を標識にすることは国民感情を必要以上に揺さぶることがありえるし、その分別が微妙であるだけに国民の意見や思考基盤をも一層に分断することにも繋がる恐れが否定できない。刑法規定が主観的な要素を多く含むことの問題は戦前の例をみるまでもなく、時代錯誤である。とうとう「ルビコンを渡った」のではないか、との危惧は深刻である。

7 リベラル主義に反する
 そもそも国に対する好悪の感情の持ち方はその人の個人の自由である。国家成立以前の始原的な自由である。それが近代国家の原理であろう。崇敬・尊敬、畏敬などのレスペクトは、君主制国家や独裁国家でなければ、国の方から国民に向かってあれこれ言い干渉することではない。それは思想表現の自由。否!、それ以前の内心・良心の自由の問題である。法は、その内心・良心に向けて「国家を愛することは大事なこと、刑罰に架けるべき順守事項だ」と国民の耳許で囁き、恭順を強いようとする。
 国をどう思うかは、個人に放っておいて貰いたい道徳徳目である。国から戦中・戦後何度も裏切られてきた沖縄県民、近くは誤った運用に謝罪も受けられず差別扱いを強いられる社会保障利用者、失われた30年にいまなお呻吟する非正規あるいは女性労働者たち、それにえん罪被害者たち・・・etc。
 国に対する崇敬・尊敬、畏敬を持とうにも持てない、心に異論や留保を保持する国民が現に存在する。彼らのことを無視して「国を大事だと思う気持ち」が国民の共通感情と言い立てることはできない。国を愛せない者が国旗を愛せ(る筈も)ない。法は複雑で価値観が錯綜する今日の多様な国民感情をありのままに考量しようとしていない。ただ国を愛するという幻覚・幻想と一方的な願望のうえに策定された刑罰はリベラリズムに逆行すると言う他ない。

8 自由主義の政治基盤を崩す                           
 国が嫌い、不快だと公然と言えることは近代国家としての自由主義の基盤である。個人・集団の別なく、その思いを外部に表明することは、非暴力である限り(他の法益を侵害しない限り)許される筈である。市民的不服従は、憲法の定めるように、広く個人の尊厳的行為として尊重されなければならない。自分で保持する日の丸(国家を仮託された象徴物)に、抗議する意味で毀損する表現活動は-公然であろうとなかろうと-、保障される事柄である、まして、それが内心の思いを昇華する創作活動のうえの行為であれば、芸術活動として憲法の「表現の自由」に属する。それを許容できない国家は立憲主義の名にふさわしくない。ましてやそれを刑事的サンクションンで担保すると言うのでは、近代の自由主義に反すると言わざるを得ない。このような法はただちに廃止されるべきだと願う。
 私は反国民的とか平和主義でないとか言われずに、これからもハト料理を静かに楽しんでいきたい、切にそう思う。

 

投稿者: 東京合同法律事務所

2026.09.15更新

弁護士 荒 井 新 二

1 国旗は「国家」のシンボル
 国旗損壊法(以下法という)が2026年7月17日に国会で成立し同月24日に施行された。国会審議では、国旗がシンボル(象徴)であることの意味が深く掘り下げられず、国旗尊重のスローガン的言辞が大手を振って国会を罷り通った感がある。
 しかし、よく考えてほしい。シンボルの先には必ず象徴される実体がある。鳩は平和の象徴である。シンボル化された鳩の実体は平和である。同じように国旗で象徴されるのは国家である。ハト料理に舌鼓をうっても「平和に対する罪」にはならない。国民感情としても誰も平和が毀損されたとは思わない。
 なぜ「日の丸」という、それ自体物理的な有体物を破損すると(自己保有の「日の丸」を含め)、刑罰を受けなければならないのか。

2 説明された保護法益
 国会審議では国旗を愛することは国民の一般感情であって、それを毀損することはその普遍的な感情を毀損するからと説明された。ことは刑事罰の問題であり、またリベラル主義の問題、自由主義の問題である。そのような底の浅い議論で済ませる訳にはいかないだろう。
 象徴されたところの「国家の尊重」の意味、刑罰で罰する必要性について、十分に深い審議がなさなかった。ただ外国旗損壊規定を持ち出す答弁が頻用されたことだけが目立った。しかしこの規定は多くが有識者が指摘するように外国旗を自国民が侮辱すれば、その国との円満な外交が阻害されることを防止する立法趣旨である。このことを区別せず一緒くたにしてまことしやかに説明する国会はそれ自体、異様と言うほかない。
 そういう次第になった経過について国会参考人の学者が指した「法が内閣法制局の厳格な審査を経る閣法でなく自民や維新の議員諸公による議員立法だった」は、この法の形式・内容の異質さの図星をついている。
 シンボル・象徴を刑罰で守る初の独立立法である。シンボルを刑罰で守ることの意味、その問題性を議員諸公は理解しているのか。その立法に与える負の波及効果をどう考えたのであろうか。
 一部に刑法の「礼拝所及び墳墓」象徴毀損罪が既に先例としてあるとの指摘もある。しかし同犯罪は霊魂などの非実体を象徴するものに過ぎない。客観的な有形物でないからこそ崇敬尊重されるのであって、国家=日の丸とはシンボルの性質を異にする。
 その意味でも、社会的な実体のシンボルを「不敬」として立法したことの意味は重い。シンボルとは、曰く言い難い抽象物を分かりやすく伝達する機能を持つ。この法が立法類型の境界を越えたことは、この種「不敬」罪の立法の試みが様々な形で今後頻出することをなによりも危惧する。

3 国家を大事にするのは共通の国民感情と言う言説
 先に述べたように法の保護法益は、国旗を大事にする(レスペクトする)「国民の共通感情」と説明された。もう一度言いたい。国旗を大事にするということは、国旗に仮託された「国家」を大事にするということであって、それ以上でも以下でもない。
 ところが法には「国家を大事にする」というナラティーブが正面切って明示されず、法案の字面、立法「理由」にも全く出てこない。定義規定を含め僅かの3条しかないのにである。
 国民は国家を大事にする一般感情を持つという事実は、どのように検証されたのか。また国家を大事にするべしという規範を、いつ、どこで誰が決めたと言うのか。 国歌国旗法制定(1999年)の国会審議では「君の代」「日の丸」を尊重せよとの議論は一切なく、これらを強制しないと言う政府説明があった。
 「国民感情」について実証的な検証および制裁の根拠に関する厳格な審査か必要不可欠である。そういう議論をほとんど行わず法案成立に至ったことは大きな禍根を残した。
 その意味でも今回の法は欠陥法と言えよう。

4 「日の丸」の来歴
 国旗である「日の丸」は、明治維新前後から広まった近代の産物である。戦前の絶対天皇国家の旗印と生まれ、その後「国体」を象徴するものとなった。その「国体」のなかみがグロテスクな変幻自在ぶりを発揮して、自由と権利の抑圧の暴力的な手段として駆使されたことは戦前の歴史的な事実である。戦後、主権が天皇から国民に移行し国の根本が変わり、すなわち「実体」が転換した以上、「日の丸」の意味に劇的な変化が生じた。それに伴い持続した(本来そうすべきでなかった)「日の丸」に対する国民感情も戦後に反転し、「日の丸」にたいする国民感情は複雑化し流動化していったこともまぎれもない歴史的な事実である。
 「日の丸」を愛することが一般的ないし普遍的な共通感情だと言うのは、「普遍」「一般」という点において、日本の近代史に反する強引な誤訳であろう。そのような「日の丸」の歴史、来歴、そのことに対する戦前、戦後を含めた明治以来の国民の感情と推移を十分に吟味することが必要であった。そのような議論をまともにせず、一方的に「一般感情」「普遍的な感情」をあたかも既存の確定的事実のようにして強引に立法化を図ったことは、立法の府たる国会の責務を果たしたことにならない。国民の国旗=国家に対する感情・認識を封印する結果となったと思われる。それは国旗に託された筈の国民統合の機能をかえって害しかねないパラドックスを生んだと言えよう。
 フランス革命は、ブルボン絶対王制の国旗とも言うべきブルボン家の紋章が怨嗟の的となり、人民の旗の三色旗が1794年に正式に国旗と定められた。特定の国旗に対するレスペクトというものは歴史通有的なものではない。時々の国家の政体・政治と不即不離の関係にあって、それと離れて独立に、普遍的な尊崇の対象になるものではない。国旗も歴史とともにある。「日の丸」も決して例外ではない。「日の丸」の来歴に見て見ぬフリをすることはできず、これに「懐かしい郷土」、「愛すべき自然・風土」はては「美しい国」などの非実証的でロマンチックな言辞を飾りたてるようなことは、法が法である以上、できないのである。

5「愛国主義的精神」は道徳論           
 一部に教育基本法2条五号に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」という文言を引用して、愛国心の保持は法で既に保護されているとの議論がある。しかしこれは道徳を含めた教育の目標をうたったものに過ぎない。それを新設した安倍首相もこれを強制に繋がるものとは考えないと言明していた経緯がある。当時の担当の文科大臣も「我が国」には政府などの今日の統治機構を含まないと明言していた。
 今回の法は、対象の範囲から、国の統治自体、政治のあり方を除外するものになっていない。郷土、風土、自然、古里、古来の風習などのイメージで語られるものだけに限定する趣旨もない。それに道徳上の問題ではなく、刑罰の問題であって、教育上の規定とは次元を明らかに違う。教育基本法を引用しての上記言説も容れられないと考える。
 私は、国民の国家を愛する問題はともかくとして、国家は愛されるべき存在であるべきだとは思う。大は国民の感情としても、小は個人的な感情(道徳感情)のうえでも国を愛したいと思う。しかし国から自分(クニ)を愛せよと言われることに大きな違和感を持つ。ましてや刑事制裁を背景に国を愛せよと言われたくない。
 愛国心というものは、自然に涵養され時間的び醸成される気持ちである。プーチンのロシア、トランプのアメリカあるいは形は違うが神託政治のイランなど、当該国民(の一部にしろ)が本心から国を愛せないと言う事例がありうるし、今日現在の事態はそうあって当然であると思う。
 上からの愛国主義的意識の押しつけ、愛国思想の強制・動員は筋違いどころか、刑罰権の保有を含めて国家権力を専横する国家として全くの間違いである。

6 刑法の構成要件が甘く、国民の分断を強める
 法の審議では思想・良心に渉らないように客観的に判断するから人権侵害の恐れはないと説明された。象徴には、既述のとおり一般に説明しがたい抽象的なことをイメージ的に分かりやすく示す機能がある。その物理的損壊を刑事罰に問うとき、行為者の意図、思想が必然的に問題となり、そこに思想・良心への侵害の恐れが生ずる。
 法の説明では、そのことを回避して客観的な判断を担保するため、法に「快・不快あるいは好き・嫌い」の基準で判断する旨の規定をおいたと言う。「快・不快あるいは好き・嫌い」は、人々の気分で左右される主観的要素である。客観的な判断を担保するために超主観的な基準を導入するとは、悪い冗談としか思えない。これでは裁判官たちも法の運用に躊躇することになろう。参考人がこの法は使い物にならないと嘆じたのも肯ける。超主観的な感情に基づいて刑罰をきめようとするのは刑法的にもあまりに乱暴である。立法者は「あくまで一般通常人を基準として」判断すると言うが、一般通常人とは、多数派の別名であろう。多数派の感情の持ち方で刑罰が決まるのは少数者の権利に対する重大な侵害になりうる。
 さらに主観的な感情を標識にすることは国民感情を必要以上に揺さぶることがありえるし、その分別が微妙であるだけに国民の意見や思考基盤をも一層に分断することにも繋がる恐れが否定できない。刑法規定が主観的な要素を多く含むことの問題は戦前の例をみるまでもなく、時代錯誤である。とうとう「ルビコンを渡った」のではないか、との危惧は深刻である。

7 リベラル主義に反する
 そもそも国に対する好悪の感情の持ち方はその人の個人の自由である。国家成立以前の始原的な自由である。それが近代国家の原理であろう。崇敬・尊敬、畏敬などのレスペクトは、君主制国家や独裁国家でなければ、国の方から国民に向かってあれこれ言い干渉することではない。それは思想表現の自由。否!、それ以前の内心・良心の自由の問題である。法は、その内心・良心に向けて「国家を愛することは大事なこと、刑罰に架けるべき順守事項だ」と国民の耳許で囁き、恭順を強いようとする。
 国をどう思うかは、個人に放っておいて貰いたい道徳徳目である。国から戦中・戦後何度も裏切られてきた沖縄県民、近くは誤った運用に謝罪も受けられず差別扱いを強いられる社会保障利用者、失われた30年にいまなお呻吟する非正規あるいは女性労働者たち、それにえん罪被害者たち・・・etc。
 国に対する崇敬・尊敬、畏敬を持とうにも持てない、心に異論や留保を保持する国民が現に存在する。彼らのことを無視して「国を大事だと思う気持ち」が国民の共通感情と言い立てることはできない。国を愛せない者が国旗を愛せ(る筈も)ない。法は複雑で価値観が錯綜する今日の多様な国民感情をありのままに考量しようとしていない。ただ国を愛するという幻覚・幻想と一方的な願望のうえに策定された刑罰はリベラリズムに逆行すると言う他ない。

8 自由主義の政治基盤を崩す                           
 国が嫌い、不快だと公然と言えることは近代国家としての自由主義の基盤である。個人・集団の別なく、その思いを外部に表明することは、非暴力である限り(他の法益を侵害しない限り)許される筈である。市民的不服従は、憲法の定めるように、広く個人の尊厳的行為として尊重されなければならない。自分で保持する日の丸(国家を仮託された象徴物)に、抗議する意味で毀損する表現活動は-公然であろうとなかろうと-、保障される事柄である、まして、それが内心の思いを昇華する創作活動のうえの行為であれば、芸術活動として憲法の「表現の自由」に属する。それを許容できない国家は立憲主義の名にふさわしくない。ましてやそれを刑事的サンクションンで担保すると言うのでは、近代の自由主義に反すると言わざるを得ない。このような法はただちに廃止されるべきだと願う。
 私は反国民的とか平和主義でないとか言われずに、これからもハト料理を静かに楽しんでいきたい、切にそう思う。

 

投稿者: 東京合同法律事務所

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