東京合同法律事務所汐留駅跡地再開発 > 汐留駅跡地の監視運動をふりかえって~パンフ「汐留」より

汐留駅跡地の監視運動をふりかえって~パンフ「汐留」より

汐留駅跡地の監視運動をふりかえって~パンフ「汐留」より


「汐留駅跡地監視委員会」の結成

国鉄の分割民営化の最大の目玉商品と言われたのが汐留駅でした。政府も財界も東京駅周辺、汐留駅、臨海部の三つを東京大改造の三大プロジェクトとして華々しく打ち上げていたのです。

このような動きに対して、国労汐留駅分会のみなさんが汐留駅の存続を訴えるアピールに取り組みましたが、残念ながら汐留駅の廃止をくい止めることはできませんでした。

これで汐留駅に労働者はいなくなってしまうけれども、このまま汐留駅を政府や財界の思いどおりにさせていいのだろうか。国民の立場で汐留駅を監視する組織を作れないものか。こういう分会のみなさんの問題提起を受けて、有志の研究会が開かれ、そして1987年2月28日に四ッ谷の主婦会館で「汐留駅跡地監視委員会」を結成するに至りました。

規約には「この会は、国民の共有財産である国鉄汐留駅跡地が利権あさりの対象とされることを防止し、 国民による十分な論議と合意に基づいて同跡地の利用が決定されるよう監視し、行動することを主たる目的とする」 と定めていました。


当初の活動

当初は土地問題や都市開発問題などの研究会をおこない、資料や情報の収集・整理をしていました。そして1988年2月27日には田町の勤労福祉会館で「汐留駅跡地の民主的利用を考える市民集会」を開きました。

しかし、その後活動が停滞したため、研究や情報収集にとどまらず、もっと具体的に行動しようということになりました。

1989年2月27日には「汐留駅跡地に関する要請ならびに質問書」を関係機関(運輸省、国鉄清算事業団、東京都、港区)に提出し、関係文書の公開と説明を求めました。
これには74名の個人と二つの団体が賛同し、汐留駅跡地の開発に関するいくつかの重要書類を入手することができました。ただし、国鉄清算事業団だけは面会人数の制限をしたうえ、一切の資料の公開を拒み、かたくなな態度に終始しました。

つづいて、1989年4月22日には「汐留駅跡地見学会」をおこない、6月3日には「汐留駅跡地を考えるシンポジウム」を開催しましたが、シンポのなかで「レールシティ汐留企画」の代表取締役に住友系の「財団法人トラスト60」の吉瀬維哉会長が就任していることが判明しました。
この「トラスト60」の評議員には、あの国鉄再建監理委員会委員長の亀井正夫住友電工会長がなっていました。

汐留駅跡地周辺は住友系の企業が激しく地上げをおこない、狂乱地価を作りだしただけに、住民を追い出して大企業の利潤をはかる東京大改造の実像が浮き彫りになってきたのです。


汐留市民提案展へ

「汐留駅跡地監視委員会」は、国鉄労働者や国鉄問題に関心をもつ市民が中心となって始まりましたが、東京大改造のもう一つの大プロジェクトである臨海部開発問題に取り組む都職労港湾支部のみなさんに参加していただいたことによって大きな飛躍を遂げることになりました。

一つは「監視」から「民主的利用」へ積極的な転換をおこないました。規約を改正して「汐留駅跡地の民主的利用を求める会」 に改組したのです。

二つ目は、パンフレット「0マイル標識はどこに行く ねらわれた汐留駅跡地」を作ったことです(1989年10月)。

汐留の歴史、汐留をめぐる政財界の動向、国鉄解体の真のねらい、東京大改造問題、国鉄の労働問題、市民からの提案など多彩な内容を盛り込みました。多くの方々が執筆してくださり、このパンフはその後の運動の指針となっています。

三つ目は、汐留駅跡地をどう利用するかについて市民の提案をつくろうという提起をしたことです。

お互いにアイデアや意見を出し合い、それを新建築家技術者集団の建築家のみなさんにまとめてもらったのです。こうしてできあがったのが汐留駅跡地利用計画「水と緑に囲まれた自由広場構想」でした。

四つ目は、それをさらに発展させて「汐留市民提案展」を1990年10月12日~13日に東京地評会館で開いたことでした。


展示コーナーには次の展示物が出品されました。

 ・模型「水と緑に囲まれた自由広場  構想」(約八〇〇分の一)
 ・政府・東京都の案 大企業の案
 ・汐留周辺の住友不動産の土地取得 状況
 ・市民提案コーナー
 ・模型「GATHERS構想 IN UMEDA」
   大阪・梅田貨物駅跡地の市民提案
 ・模型「二条の森プラン」
   京都・二条駅の市民提案
 ・東京・国分寺鉄道学園跡地の市民 提案
 ・「谷根千」コーナー
 ・汐留の歴史コーナー
   江戸時代の汐留
   鉄道発祥の地・汐留の歴史
 ・鉄道写真コーナー
 ・東京臨海部開発コーナー
 ・参加者提案コーナー


催しとしては、運動の経験交流(大阪・京都の仲間を迎えて)、講談、落語、記念講演、フリー討論会、トランペット演奏、合唱などがおこなわれ、約300名の方々に参加していただきました。

特に模型「水と緑に囲まれた自由広場構想」は新建の建築家のみなさんの指導のもと多くの人たちの協同作業で作り上げたものです。

その他の展示物も多くのみなさんが手分けして作り上げたもので、汐留の運動の集大成をなすとともに、参加者の幅を大きく広げました。会は個人会員115名、団体会員13団体となりましたが、 さまざまな分野の方が参加しているのが特徴です。


汐留遺跡の発見と保存運動

 「水と緑に囲まれた自由広場構想」は、オフィスビル最優先の再開発、住民追い出しの地上げ攻勢と環境破壊にたいして、水・緑・自由広場というコンセプトで対案を提示したのですが、市民が自由に憩える広場には旧新橋駅と開業当時の鉄道を復元してSLを走らせることを提案していました。

ところが、実際に旧新橋駅の遺跡が発見されたことによって、私たちは遺跡保存にまで取り組むことになってしまいました。

地元の町会連合会は、遺跡発見前から史跡を中心とした歴史的文化遺産の保存と整備を要請していましたし、それをうけて港区議会の決議もなされていました。

しかし、遺跡発見当時は、文化庁、都教育庁、港区教育委員会、都議会各会派、国鉄清算事業団など、どこへ要請に行っても、絶望的であるとの反応でした。明治以降の遺跡で現地保存した例はないとか、発掘費用・保存費用などすべて清算事業団の負担になる、膨大な長期債務をかかえる清算事業団が負担できるはずがないという反応だったのです。

会は、遺跡の素晴らしさを広く知らせなければならないと考え、遺跡保存を求める学者文化人アピールを発表したり、請願署名を都議会に提出したり、関係機関に要請するなど保存運動に取り組みました。また、鉄道史や江戸時代の武家屋敷の専門家をお招きして講演会を開きました。

港区議会も遺跡発掘をうけて再度全会一致で遺跡保存を要望する決議をしました。地元自治体が遺跡の保存を超党派で要求するというのは画期的なことです。

こうしたなかで、ついに1996年12月10日、史跡「旧新橋停車場跡」が追加指定となり、駅舎跡とホームの一部だけではあるものの、約1840平方メートルの現地保存が決定され、現状変更禁止の規制がかけられたのです。


臨海部開発問題など

会は「臨海部開発問題を考える都民連絡会」の活動にも参加しました。

臨海副都心への進出企業の決定についての情報公開請求や契約差し止めの監査請求、住民訴訟、豊洲の住民訴訟、さらに 「住みよい東京を!音と光の都民パレード」にも参加しました。

また、清算事業団は「地価を顕在化させない処分方式」と称して汐留駅跡地を証券化するための法改正を提案しました。

会はその危険性を意見書にまとめて発表しました。結局法改正はされてしまいましたが、経済環境が悪化し、証券化は実現しませんでした。もし実現していれば、国鉄や第三セクターの利権構造と同じものが作られ、経営破綻問題が現実化する危険があったのです。

今、臨海部関連の第三セクターが軒並み経営破綻し、そのツケが都民に回されてきていますし、また、政府・財界は定期借家制度を導入して土地の証券化をはかろうとしていますが、私たちはもうこれ以上このようなトリックにだまされないようにしなければなりません。


汐留売却

国史跡として現地保存する以上、その遺跡の敷地は民間に売却したりせず公有地として確保し、国が責任をもって保存・復元・維持管理にあたるべきです。

また、汐留はバブル華やかなりしころは坪1億円ともいわれたところで、バブル崩壊でかなりさがったとはいえ汐留が都心の超一等地であることに変わりはありません。不動産不況の折り、民間に売却したりすれば、大バーゲンセールになることは確実です。

会はそれらの問題点を指摘して汐留駅跡地の売却に反対しましたが、清算事業団は1997年2月3日、三街区を電通、三井不動産、日本テレビなどに売却してしまいました。


運動をふりかえって

この約10年間、会はまがりなりにも汐留についての最先端の情報をほとんどキャッチしてきたように思います。

関係機関への再三の質問と要請、都の情報公開制度の活用などを通じて情報を得てきましたし、担当者とも顔なじみになってきました。

そうした情報をもとに、パンフを作成して普及したり、汐留市民提案展を開催したり、遺跡保存の学者文化人アピールや都議会への請願署名運動にも取り組んできました。マスコミにもずいぶん取りあげてもらいました。こうした取り組みのなかで行政や大企業を日常的に監視し批判し行動する市民の取り組みの必要をあらためて感じました。

残念ながら、汐留駅跡地の処分を止めることはできませんでしたが、鉄道遺跡の一部を現地保存させるという画期的な成果も生まれています。

民間企業の所有になったとはいえ、汐留駅跡地の公共性に変わりはありません。これまでと同じように、今度はそれぞれの企業に監視の目を向け、情報の公開と市民要求の実現を求めていくことになるでしょう。

旧新橋駅の駅舎を復元することは決まっていますが、日本の鉄道発祥の地のモニュメントとしてそれだけでよいのでしょうか。

汐留遺跡で発掘された遺構の写真や遺物を展示したり、模型を展示するなど、文明開化や鉄道の歴史を学習できる博物館くらいは整備すべきでしょう。また、汐留遺跡は江戸時代の武家屋敷の遺跡としても貴重です。その保存についてももっと考えなければなりません。

行政や大企業を民主化するには、労働者と市民の持続的な監視と要求が必要です。
それなしに行政や大企業が自主的に民主化することはほとんど期待できないからです。その意味で「市民オンブズマン」の取り組みが果たしている役割はたいへん大きいと思います。

私たちの会の取り組みも、ささやかではありますが、そういう労働者と市民の持続的な取り組みの一つの実験でありたいと思っています。